2018/10/16
時の絶対王者、名人九連覇中の中原16世名人を破り、42歳にして名人位を獲得した加藤九段。数々の伝説を残した第40期名人戦の最終局をご紹介します。
第40期名人戦七番勝負第8局
1982年7月30日
加藤一二三十段(3勝) vs 中原誠名人(3勝)
対局場:東京都「将棋会館」
持ち時間:各9時間
棋界の太陽と呼ばれた中原名人との初期の戦いは、加藤十段にとって厳しいものでした。1973年の名人戦で0勝4敗で敗退したのを含め、最初の22局は何と中原名人が21勝1敗と圧倒しています。
将棋に限らず、勝負の世界では若きチャンピオンから先輩がタイトルを奪うことは困難な場合が多いものです。しかし、加藤十段は不死鳥のようにその後もタイトル戦へ何度も登場し、両者の対戦成績も拮抗して行きます。そして1981年度には7割を超える高勝率を残し、9年ぶりに名人戦の舞台で再び中原名人と相まみえます。
その第40期名人戦は、最終局までに持将棋が一度、千日手が2度成立する大激戦となります。当時は千日手も後日指し直される規定だったため、3勝3敗で迎えた本局は実質10局目の勝負でした。
この対局の際、加藤十段はお茶やお菓子を一切断っています。後に、それほど深い意味はなかったと語っていますが、豪快な食べっぷりで知られる加藤十段としては異例の出来事で、名人位へ懸ける並々ならぬ思いの一端が垣間見えます。
後手が先制
加藤十段の先手で、戦型は相矢倉に。当時は「将棋の純文学」と呼ばれた矢倉全盛の時代で、この名人戦でも何と全10局が相矢倉でした。
ここで中原名人は△8六歩、▲同銀、△同角、▲同歩、△8五歩と襲い掛かります。角銀交換の駒損ですが、後手の玉頭攻めの強烈さと比べると先手の攻撃陣は立ち遅れており、さらに△6九銀の傷も大きく、後手がペースを握ります。
先手玉の薄さが目立ち、指す手が難しい局面です。加藤十段は2時間20分の大長考の末、▲6一角と打ちました。△7七歩、▲同金、△7六金、▲7八銀、△7七金、▲同角、△7六銀と進み、後手の猛攻が続きますが、将来▲4三角成と切る手を見せて少しでもプレッシャーを掛けようという実戦的な一手です。
中原名人、まさかの悪手
加藤十段の勝負術が功を奏したのか、中原名人に珍しくミスが出ます。△4二飛と逃げていれば、玉が薄く駒が渡しづらい先手は指し手に窮していました。しかし中原名人が△同金から決めに出たため、▲8二角成で形勢は急接近します。
後手が△5二歩と受けた局面。先手玉はもう一枚駒を渡すと△6七竜以下詰んでしまう状態です。この時中原名人はまだ一時間以上持ち時間を残しており、相手から駒を渡さずに後手玉を寄せられることはないと読んでいました。
1分将棋の加藤十段は▲同角成と指します。攻めを続けるためにはこれしかない手ですが、この時点では負けを覚悟していました。
ついに詰みを発見
中原名人は△同金。するとその時、加藤十段は何と後手玉に詰みを発見します。
「あ、そうか!」
思わず声が洩れました。
▲3二銀成、△1二玉、▲2二金、△同銀、▲同成銀、△同玉、▲3一銀と進み、中原名人が投了しました。
以下、△同玉は▲3二金、△同玉、▲5二竜以下、△3三玉も▲3二金、△4三玉、▲4二銀成以下、上部の歩や桂の配置が全て働いてぴったり詰みます。
最後の詰み筋は控室で検討していた棋士達は早くから発見しており、加藤十段や中原名人ならば一瞬で見えても不思議のないものでした。その詰みを勝負が決まる直前まで両者が見落としていたことからは、10局目までもつれ込んだ激戦の疲れと、名人位の重みがひしひしと感じられます。
当時の記事には、ひふみんらしい終局後のエピソードも記されていました。
名人戦最終局の夜、対局室階下の事務室にいると、感想戦を終えた加藤新名人が電話をかけに下りてきました。もちろん家で待つご家族への第一報。ところが「モシモシ、モシモシ、オヤ加藤さんのお宅じゃないんですか。失礼しました」
加藤名人でも番号に見落としがあったようです。でもやがて「モシモシ、あ、ユリちゃんですか。パパですよ。ウンウン、そう。これからあとちょっとお仕事して11時半には帰りますからね、ハイおやすみ」の声。
ユリちゃんは小学校1年生。やさしいパパの声でした。
(「将棋世界」1982年10月号)
終局直前に「あ、そうか!」と言ったとされる加藤十段の言葉には諸説あり、「ヒャー!」と叫んだとも言われています。数々の名局の内容もさることながら、このような人間味溢れる姿にも、棋士としてのひふみんの魅力が現れていますね。